昭和51年07月23日 朝の御理解
御理解 第92節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
昨日日田の国師さんがここでお届けをされるのに、その前日あちらの小学校四年生でしょうか、一人息子がおります。が今丸少のバンドの方に加入して何か今稽古をしております、あれは何と言うんですかね、ここやって恵介君がやっているトロンボ-ンですか、中々難しいらしいです。それでちょうど合楽で稽古してきたけれどもどうしても覚えられない、そこで久留米の佐田さんところの恵介君がわざわざ日田まで指導に行ってやってるんです。そしてみっちり三時間稽古をしてやった。
まぁ大変自分も楽しく覚えてから大変喜んだという話です。それであちらはご承知のようにいわゆる佐田さんのお里が日田ですから、日田のお婆ちゃんのところに行くもんとばっかり思っておった。それで恵介君はお婆ちゃんところへ泊まられるだろうと聞いたら、いいや僕は今から帰るとこう言う。そんならわざわざ教えに来て貰ってそりゃ本当に気の毒だったね、と言う事だったらしいですけれども、丁度そういうところへあちらはパ-マやさんですから材料屋さんがみえて。
いつも日田からずっと奥の方へ行かれるのに、その日は井手さんのところに一件回って今日は久留米の方へ帰るとこう言われた。井手さんという方もここへお参りをしておられる方ですね。二人共パ-マ屋さんです。とにかく亮子先生のところへ回って帰りますという。そんなら久留米からこの坊やが来とるけん乗せてって下さい、あぁそりゃよかどこじゃないというて、まぁおかげを頂いたと言う事です。
そして僕が例えば三時間教えて頂いたけれども、恵介君は行き戻り時間を合わせると、六時間もいうなら掛る様な事になる。それを僕のためにあのう教えに来て頂いた、本当に信心を頂いておる者は違うねと言うたら、僕は大変感動したという話でした。ただ三時間教えてもろうたと思うたら、本当にそうたい行き戻りの時間までいれると、六時間も僕のために恵介君が、しかもわざわざ来てくれたと言う事に、そのま感動して親まで一緒に有り難いと思うた、と言う事をお話ししておりました。
これは昨日一昨日が久留米いや、福岡の支部の共励会で、まぁあちら遅うやっぱなりましょう、十一時、十二時も過ぎるんじゃないでしょうか、それで最近は桜井先生必ず高橋さんのところそのうへ泊めて貰いなさる。そしてあくる朝、朝の御祈念に出てきなさればならんから、この頃は度々高橋さんのところにお世話になりますとこう言う事である。それで昨日もその事をお届けされて本当にもういつもの事ながら、もう高橋さんに感心しますというお話しです。
もうそんなに遅く帰られてから、必ずまた長々と高橋さん大祓信行がありますとこういうのです。そりゃもう皆さん誰でもしよんなさるでしょう、これだけ大祓信行の徹底と言う事を言うておりますから、けどももう私は信心を行じておるとか、あぁあの人は信心しござるけん違うと言われなさったと言うのを聞くのがこげん嬉しい事はないです。私は桜井先生のその話を聞いて感動しました。
もう例えば共励会からあぁもう一時もその上もなって帰って来て、それからまたこれだけはと決めておられる、大祓信行をされて休まれますというのです。私は今日の御理解を頂いてですね、言うならば守り守りの力によってひれいが違うのぞと。昨日の朝の御理解の、二つの教会の先生の例をお話しましたですね。まぁあぁいうところからそのうまぁある教会で御造営が始まっておるから、割り当てをなさる会議があったと。そこの御信者がここへ最近遠方ですけれども、毎日信行に通ってみえる。
それで最近はもう的確にお夢を頂かれる。そのお夢の中にいつその教会の便所に行っても、黒衣を付けた人がちゃんとこう用をたしよんなさる。また開けるけれども又だれか入っとるその方が入っとんなさる。だから便所に行かれないというお夢を頂いた。又次ぎにはその先生がご飯をついで、横におつゆ鍋があるけれども、あつゆの中に身が何んにもはいっていないというお知らせを頂かれた。いうならばそこの先生が身もないのに実もないのに、ままになろうとしておると言う事ね。
いうなら御造営なら御造営でもです、神様が思いたって御造営をなさる教会と、先生が思い立ってなさる教会とがございます。そりゃ先生が思い立たれるにしてもです、そりゃそれだけの信者に迷惑をかけんですむだけの、財力なら財力を頂いてからの琴ならまだしもの事だけれども、その実もない力もないのに信者に割り当てをして建てなければならんような御造営というのは、それは丁度おつゆの実のないご飯、身も無い実もないのにままになろうとしておる、それでは人が助かる筈は無いというお話しでした。
また便所の中に黒衣をつけた人がいつも、それこそ御結界は便所と言われるのですから、先生自身が自分の難儀とか苦労の事のためだけに、ただ自分の生活の事のためだけにです、例えばその便所を使うておられるとするなら信者の入る場がない。だから奉る神様は同んなじであっても、そういう教会では人が助かりようがないという。ただその教会が維持されるために、どれだけかの信者がついておると言う様な、相済まん結果になっておる教会が、まぁどのくらいあるか分かりません。
もう一つも、ある教会の先生が合楽に初めておかげを頂いて、御神夢の御心眼のというのは全然信用の出来なかった先生が、帰られたらすぐ御神夢を頂かれた。御神夢と思わなければおれない御神夢を頂かれた。船に乗って漕ぎ出したのは良いけれども、それには自分の箪笥とか長持家財道具が一杯積んである。ようやく自分が一人乗れておるまではよかったけれども、風が吹いて海が少し荒れだした所が、タンスが海の中に飛び込むごとあるから、その引き出しを飛び込んじゃならんと思うて一生懸命押さえておる。
船は増々揺れておるというお知らせを頂いたが、どう言う様な琴だろうかと言うて末永先生宛に手紙が来た。だからそれに対してまぁ答えさせて頂いたんですけれどもね、○○教会といういうなら徳の船に乗っておりながら、自分の屋財家財だけが乗っておるのじゃ信者が乗ろうとしても乗りもされない。しかも乗るだけではないもう只そのうタンスが海の中に落ち込まん様に、こうやってしておるだけで精一杯。これじゃ人が助かる筈はないよと言う事を言うて、昨日その事を芯にして聞いて頂いたんですね皆さん。
だからそこんところを今日ここんところに持って来るとです、丁度なるほど神様は同じだけれども、守り守りの信心又は力働きによる事だと言う事が分ります。そこで私はいま高橋さんと佐田恵介君のいうなら、子供と大人の信心を聞いて頂いたんですけれども、どうしてそう言う風に行き届いた信心が出来る様になるのか、子供ながらでもいわゆる何事にも信心になれと言う事に、もっての言うならば生活が出来ておる。私に力があるとは思われませんけれども、ここではねその教導が素晴らしい。
教導を受けて帰るからおかげが受けられるという、そこが違うと思うんです。私ここでは守り守りの力によって違うと申しました。いわば力じゃない私の場合は力じゃない。いわゆる皆さんが本気で信心をなさるからおかげを頂かれる。又本気で信心をしなければならない様に、教導を受けるからおかげが違うのである。だから如何にここでなら行き届いた教導を受けてもです、それを行の上に現さなかったら、だから同じ事だと言う事になるのじゃないでしょうか。
いやむしろ合楽で信心が詳しくなっただけで、力がついていかないならば、却ってどうかある人が徳を受ける力を受けるというのは、御ひれいの立たない教会の方がお徳が受けられる、力が受けられると言う事を、言うた人がおりますけれども、それも私はある意味で道理だなと思うんです。先生に力がない教導が行き届かない、そこで自分自身がです本気で信心になると、心からその信心がその人のものになって力を受け、徳を受けるという例はあります。
だから沢山お参りがあっておって、その中にはワッショイワッショイと言わんばかりの信心であっては、いうならばそれこそ、お神輿担ぎ的な事のおかげにしかなって来ないと言う事です。ここでこちらに移らせて頂いて、半年目位だったでしょうかね、三百のお届けがあるようになったら、御結界を右左に作れというお知らせを頂いとった。そのおかげを頂いて初めてここでは、右の方に御結界が出来たんです。今はまぁ朝やら月例祭の時だけではあるけれども、御結界がいうなら三つ出来た様なものです。
三人でお取次ぎさせて貰いますからね。それが今は段々五百が六百になり千になり、現在千三百名からのお届けがあっとります。ちょうど八年余りになりますかね、その御結界が両方出来て。と言う事は日勝り月勝りに、おかげを頂いておると言う事なのですけれども、言うならば先生の教導がよいから、皆んながある場合には、それこそ先生に騙されたようにして、参ってきよるというのもあるかも知れません。
ある人がはぁもう合楽の大坪先生は、はなかなから商売人じゃから、なかなかそのまぁ信者の扱いが上手だと、いう意味の事を言われた事がございます。いうならば口が上手だ、いうなら信者の扱いが上手いんだと。まぁそれはそれに致しましてもです、なら問題が例えば本当の事ではなくてもです、皆さんがなるほど合点を受けて、それを行の上に現していかれるところに、信心がいうなら楽しいものになって来る、有り難いものになって来る。だから結局は私は教えを行ずる人には勝たんと言う事です。
同時に私は思うのですけれども、合楽の場合はいつもその眼目、目当てが素晴らしいと思います。合楽示現活動に参画するとか、いよいよ和賀心時代を、合楽教会大発展の御神願御成就に相成りますように、と言った様な願いに皆さんが奮い立っていかれる。スロ-ガンが素晴らしい。神様の心を捕らえずにはおかんという、いうならば眼目が私いつの場合でも素晴らしいと思う。だからいくら素晴らしい眼目であっても、その眼目になら皆さんも添うて行かなかったら、また同じ事だと言う事です。
どうでしょうか合楽教会の大発展、御神願成就が祈られておるだろうか。本当に合楽示現活動に参画のおかげを、頂かして下さいという願いを持っておるだろうか、本当に先ずは私の心から私の家庭から、自分の周辺にいよいよ光りの輪を広げていこう、和賀心時代をつくるための、いわばその基にもならせて頂こうと言う様な、願いを持っておられるであろうか、そういう願いも持たずに、皆さんがお参りをしておるというならばです。それはいうならワッショイ、ワッショイの掛け声に吊られて来よるようなもんですから。
大した事はないと言う事であります。なら今月の焦点がです、いよいよ太くもう本気で信心を進めておられる方達の上にはです、もう本当にもう普通ではもうこれでは耐えられないという位なです、いうならば太くなるための働きが、皆さんの上に起こっている事を感じます。私は昨夜文雄先生が帰って来ましたのが田主丸の共励会でしたから、十二時頃だったかちょっと前だったでしょうか。それからまぁ本当に奉仕を受けてそれから終わりましてから、明日月次祭だから髭をちょっと剃って貰おうかというたら。
それなら髭を剃りましょうという事で、それから風呂に入って髭を剃って貰った。そしてまぁ休ませて頂いたんですけども、部屋は適当にいいように冷えておりますし、もうじっとあれこれ思わせて頂きよったら、普通であのう暑い時なんか不快指数と言う事を言いますね、私はまぁ快適指数という風に思うて。もう百のものは百二十位快適なんです。もう本当に髭は剃ってもろうた、足も揉んでもろうたあとにお風呂も入らせてもろうて、そして長ごうならしてもろうとる部屋は、丁度適当に冷えてなんともいえん。
もうそれこそもうまぁ快適の指数というなら、百点満点のおかげを頂いておるが、もう本当にこういうおかげを頂いて、勿体無い勿体無いで今日はとうとう明けました。私は皆さんにですね、本当にこのすっきりとしたおかげを、頂いて頂きたいと思う事でございます。昨日私はある方がある大きな願いを立てております事の頂きょりましたらね、あのうクルマエビをね、頂いてそしてあのう煮付けてあるのです。それを頭のところと尻っぽのところをとって、皮をむいてやって食べさせておるところを頂いた。
海老のお知らせは修行と言う事です。例えばんなら信者がね、お前の言う通り思うとおり、なんの修行が出来るもんかと、お前がしてやらにゃ出来んところは。海老でも頭のところは、中々美味しいところはあるそうですね。私は頂き切らんけん知らんけどだそうです。勿論あの尻尾なんかのこう尻尾三つになっとるところの真ん中の芯が、あのう塩焼きで食べたら素晴らしく美味しいですね。そげんところは食べる。だから真ん中しかも身をむいてやって、真ん中の美味しかとこだけを食べさせるくらいな、心掛けでおらなければ人は助からんと言う事を頂いた。
だから昨日は研修の時に先生達と、その事を研修させて頂いたんです。お道の取次者というのは、信者が本当にただ自分のよか修行だけはしよる。けれども言うならば頭やら尻っぽの所やらは、それこそのかしてやったり皮をむいてやらなければ本当な、本当なというかそれ位な修行でも、ならこの車海老一匹の修行が出来たとして、神様に取り次げよというお知らせを頂いた。皆さんも大変修行が出来よるごたけるけれども、まぁ本当に厳密にいうならそうじゃなかろうかと思いますよ。
又今朝からある方の事をお願いさせて頂いておかげ頂いておる。それでこの頃信心から離れようとしておる。お願いさせて貰いよりましたら、もう立派な二階の部屋ですけれども。もう障子を全部とってしまっておるところを頂いた。だから今夏の間は見晴らしもよいし風もよく入ってよかろうごたるけれども、さぁこれが一旦この障子というのは神と言う事でしょうね。建具を取ってしもうたらそうなったらどうなるだろうかと、言う様なお知らせを頂いた。
ただ夏涼しい風が入って来るからだけではいけん。今度は冷たい風が入ってくる時の事を思わずに、信心を疎かにしておる様な人達のお知らせを、頂くと又いよいよならそれこそ信者の出来ん所の、修行は取り次ぎ者がさせて貰わにゃならん。私はねそういう教会に御ひれいが立つと思うです。どんな問題でも持って来る教導も勿論するけれども、出来るところは私がさせて頂きますから、と言う様な先生の所でなければ人は助からんと思う。そう言う様な意味で私は神様からお知らせを頂きますから。
それが曲がりなりにも出来ておると言う事ですけれども。私が昨日いうならば快適な指標でというなら百二十パ-セントと言いたい位。もう百パ-セント有り難い、いんねそれ以上に有り難いと言う様な、すっきりとさっぱりとしたおかげを頂いておると言う事は、おかげを頂いて修行が段々本気でさっぱりと、すっきりとした修行が出来て来る様になったからだと自分で思います。又そのお願いをさせて頂きよりましたら、あのうゴルフをさせて頂いとる、その大きなところば打たんならんところは、中位ばっかり体をひねってからこう打っとる所を頂く。
本当に小心な気持ちで打たなきゃならんと言う所は、もうざぁっと打ちよるけん、こう曲がっとる所のほんな根元の所に、当たってコロコロと転がって行く所を頂いた。成程入るとは入ったばってん、大体言うなら曲がった所に当たらにゃいかんとね球はね。それがほんな付け根のここん所、だからね小さい事もいうなら水も漏らさんごと、言うなら細かい信心も出来よらんし、なら大きい時にもそのう本当に全身をもって打ちよらん、中位ばっかりひねってからお互いその位、例えばその程度の事であろうけれども。
ならそこんところを補わせて頂くのは、取次者だと言う事でございます。だからおかげがね頂いても、それこそすっきりとしたおかげを頂く為にはです、皆さん修行そのものがね何故かと、ここではそれ程に徹底してなら教導というか、御教えを頂いているのでございますから、その御教えをもう少し徹底して頂いたならば、もう少しはすきっとしたおかげが頂けると言う事でございます。
昨日一昨日でしたか、北野の秋山さんがこの頃から、息子が宮崎に行ってますから、宮崎それから娘婿が、今度鹿児島の方へ転勤になりましたから、宮崎から鹿児島の方へ旅行をされとりました。もう行き掛けから帰って来るもう万事万端の上に、本当にお取り次ぎを頂いて心に神様を頂き抜いて行くと言う事は素晴らしい事ねと、これはもう息子のところでもそうだった娘のところでもそうだったが、お母さんが来てくれてとにかくもう信心の雰囲気が、家庭の中にまた出来た思いだと言うのです。
まぁいろいろおかげ話がいろいろお届けがあっとりましたが、帰りにはあまりにも荷物が多過から、娘は智子さんと言われるが、大変心配してからもうこれだけ荷物はもうのりとやら色々あるとにどうすんのち、まぁ神様にお願いしていくからよかが、と言うてあちらを立たして頂いたたら、なるほど大変混んどる。ところが自分のの乗らせて頂いたところの横だけが、一つ空いとるその時に秋山さんが思うた事。
ここに誰を神様は差し向けなさるじゃろうかと思うたら先生、智子と同じような年配の、しかも荷物も何も持たん人がそに掛けたちゅうんです。それからその方と色々信心話をさせて頂いたり、行き先を聞いたら博多までと言われるから、その方があのう荷物をこう持ってくれたと。もうおかげを頂いて万事におかげを頂いて、帰らせて頂いたら娘の所から電話があった。どげな風じゃったじゃろうか、もうこんな訳でと言うたら、お母さんが発ってからずっとね、大祓信行をさせて頂いたとこういう。
まぁそれを聞いて秋山さんが大変感激しておられましたがです。そういう信心をね、例えば親がして見せて教えてあると言う事です。私は合楽の場合はそこにです、なら秋山さんの教導を私がさせて頂くとするならば、行き届いた教導が出来ておるから、それだけの事が例えば出来て来るんだと言う事です。もう本当にまぁすきっとしたおかげなんです。恵介君の場合だってそうです。親の信心をちゃんと見習い聞き習いさせて頂いているから、子供ながらもそれだけの事ができるのです。
だからすっきりとしたそのう言うならばおかげ。ならこれから帰るというならば、久大線まで送らんならんとか言う様なところを、ちょうどそこに渡り船のように久留米に帰る人が来たと言った様なね、おかげを頂いて子供ながらも、大変体験のおかげを頂いた事になります。だから言うならばその秋山さんにしろ、そのう言うなら佐田さんにしろです、いうならばある意味ですきっととしたおかげ、すきっとした信心が出来よんなさるという風に感じるのです。
おかげを受けたり受けられなかったりと、言った様な事じゃなくて、もちっと本気でです、私はすきっとした修行をさせてもろうて、それこそ不快指数じゃない、快適な指数120%、100%とまぁ言う様なおかげを頂いたらです、もうどこを押しても有り難い勿体無いであってです、信心はいよいよ有り難い勿体無いものになって来るのです。そういう信心を身に付けさせて頂く、そういう働きが合楽ではどこよりも素晴らしく、出来ておると言う事が違うというならば違うところじゃないでしょうか。
だからならそれを皆さんが行じなかった、らまた理屈は同じ事と言う事になります。その御教えを本当にすっきり頂かしてもらう精進こそがです、いよいよ皆さんのおかげになり教会大発展の神願成就と、言う事にも繋がるのでございますから。お互いが今合楽で言われておる信心をです、銘々のところでもお果たして出来ておるか出来ていないか。合楽で素晴らしいはその眼目が素晴らしい。その眼目に私は便乗させてもろうて、信心を進めていかなければいけないと思います。
どうぞ。